弘誓寺について

HISTORY

草 創

弘誓寺の草創は、平安時代中期、長元5年(1032)5月と伝承されています。真言宗の開祖、弘法大師空海御入定後200年の頃です。

この頃の真言宗は、高野山が荒廃し、その中心勢力は京都の醍醐寺・仁和寺に移っていました。これ等の寺院は朝廷の庇護を得て隆盛し、公家の子弟がこぞってその門に入りました。

一方、この頃より、地方においても、中央の諸大寺院と関係を結び、新しく地域に寺院を建立しようとする気運が高まってきました。そうしたいわば時代の要請によってこの魚沼地方にも真言宗の弘誓寺が建立されたのであります。

『弘誓寺縁起』によれば、開山は海信法印であります。海信法印は京都において醍醐寺五代の法主仁海僧正(951-1046)より灌頂を受け、法脈を相承しました。醍醐寺の仁海僧正は、真言宗の二大法脈である。“小野”“広沢”の内、小野流の始祖とされる高僧であり、小野流の法脈は千年を経た現在でも絶えることなく継承されています。

また、仁海僧正は朝廷の命によって、度々京都御所の神泉苑にて祈雨の法を修し、その霊験はあらたかであったと伝えられています。長元2年に奈良東大寺の別当職に就き、同4年には真言宗の第一人者である東寺第二十二代の長者法務になり、その間、度々伝法灌頂を行い多くの有能な子弟を育てられました。

弘誓寺開山の海信法印も仁海僧正附法の弟子の一人で、その印信・血脈は弘誓寺の什宝として大切に保管相続されてきましたが、天正19年(1591)の災禍によって多くの什宝類と共に焼失し現在はございません。

弘誓寺の本尊観世音菩薩像は海信法印の自作で、特に京都より仁海僧正を導師として招き、開眼供養されたものであります。その折、新しく建立した寺院の名称もまた仁海僧正によって、“成就山与楽院弘誓寺”と名付けられました。「大願成就の故に成就山、一国に観音の功徳を弘誓する故に弘誓寺、観世音は衆生の苦しみを抜き楽しみを与える故に与楽院なり」と言うのがその由来であります。

子安観音のいわれ

以後霊顕あらたに多くの信徒の帰依あつく、応永初年、足利義満公の帰依をうけ特に御奥方は、長子義持公の御安産を祈念、恙く御誕生せられしより子安観音の名が特に著れ、義満公は仏恩社徳のため直ちに伽藍を建立、田川、下島、吉永、田代等の寺領を寄進せられる。

以後代々の領主これにならい寺領を奉献し、崇敬あつく天正年間には山内に十二坊、末寺十五カ寺(常泉寺・龍光院・龍泉寺・不動院・遍照寺・大乗寺・密蔵院・蓮花院・円福寺・円柳寺・龍徳寺・東照院・金剛院・極楽寺・妙音寺)を有し輪奐の美を極と縁起に伝えられています。

稚児塚の由来

天正19年11月14日早暁、不運にも観音堂への落雷により炎上、観音堂はもとよりご本尊観世音菩薩像及び「縁起」「法流印信血脈」「寺領寄進状」等多くの什宝も焼失した。経済的には「寺領寄進状」など由緒記録の焼失が大きく影響し、領主よりの寺領安堵が得られなくなった。また、年貢の未納も重なり、堂宇の再建は困難を極めた。この変わりようを心から憂い悲しんだ住職は責任を感じ、5名の若き弟子と供に土中に入り入定して果てたのである。後の人々がそれを哀れんで「稚児塚」として供養されている。