境 内

本堂(客殿)

本堂(客殿)

天正19年11月24日の落雷による火災で、足利義満寄進の本尊堂は焼失し、その後しばらくは無住の時代がつづき山内は荒廃した。近世になって、智積院の直末格として復興を画り、元文五年、快真法印の代に、焼失観音堂の跡地を中心に諸堂宇を移転造立した。しかし寛延元年9月29日庫裡の釜灰により再び出火して、客殿・庫裡・土蔵を焼失した。このため再度建造されて八間半・十二間半の客殿の完成をみたが、昭和43年1月17日、観音堂脇の鎮守の間よりの出火によりまたしても焼失した。その後、住職・団信徒の再建悲願の尽力によって、本堂兼客殿が建造された。昭和46年10月24日、導師に総本山智積院化主第六十一世竹村教智大僧正猊下を智積院より招き、盛大に落慶供養が営まれ、現在の本堂兼客殿の完成をみました。

観音堂

観音堂

焼失以前のお堂は元文5年の再建で、本堂と称した。四間半・五間のお堂で、観音霊場として多くの参詣を集めました。昭和43年の火災はこのお堂脇の鎮守の間より出火し焼失したが、平成16年9月4日に智積院化主第六十八世宮坂宥勝大僧正猊下の導師により落慶法要を行い現在の堂宇が再建されました。

恵日観音堂

恵日観音堂

昭和53年8月、高橋進氏の寄進によって石造の観音像が完成し、智積院化主第六十一世大僧正竹村教智猊下により「恵日観音」と銘々されました。さらに同年10月29日、角屋健一郎・マス両氏の寄進によって現在の堂宇の完成をみました。

白山宮

白山宮

以前は山上に白山社として鎮守されていたが、近代になって現在の地に移転されました。堂宇は文政4年(1821)9月に建造されたものですが、その“御神木”は延宝五年(1677)の建立であります。本地観世音菩薩・鎮守白山権現として、神仏習合思想のまま、土地の鎮守神として尊崇を受け、現在に至っています。

記念堂

記念堂

寺内にあった観音堂の跡地に昭和13年(1938)九月に建てられた。弘誓寺三十四世長松良暁師(1867-1940)の徳を称え、記念して造られ経蔵であります。現在のお堂の中心には良暁師の木彫尊像が安置され、弘誓寺の什物類が納められています。由緒格式を示す古文書・法流箱と共に、全国でも屈指の談林所であったことがうかがえる貴重な典籍類が数多く収納められています。これ等の典籍の中には、智積院第二十一世等空僧正始めとして、長谷寺小池坊第四世秀㮍筭僧正・第二十四世信恕僧正の自筆本など、近世の著名な学匠の典籍も含まれており、資料的にみてもその質の高さがうかがえます。

鐘楼堂

鐘楼堂

天保年間(1830-43)の建造である。梵鐘は昭和18年(1943)に戦時供出され、昭和55年に梵鐘の再鋳・堂宇の修復を完成した。10月26日、智積院化主第六十三世上野頼栄大僧正猊下の導師により慶讃法要を営みました。

記念堂

殿様の腰掛石

昔、長岡の殿様牧野様が当山住職を表敬訪問された際、住職の在山確認のために家臣を出向かせたあいだ、この石に腰を掛けて休憩をしたと言い伝えられています。当山弘誓寺は、京都嵯峨御所(門跡寺院大覚寺)の院室「戒蔵院」の名跡兼帯の許可を受け、住職は出家した高級公家並の「院家様」「御前様」と呼ばれ、十万石の格式だったと言われています。長岡城主牧野侯は七万四千石でしたが譜代大名で、代々幕府の要職に携わった家柄でした。幕府の最高位、老中職を勤めた方もありました。格式制度が重要視された江戸時代の社会の一面を物語る話ではないでしょうか。

殿様の腰掛石

永代供養墓

近年、高齢者社会と少子化に伴い、お墓を立てようとしてもその後のお墓の管理などが難しいなど、お墓を作ることに困っている人達がふえてきております。そのような声を聞き、あなたの子孫になり代わり、責任を持って永代にわたり供養をいたします。